第2回研究大会(2013)発表要旨
- 【特別講演】
- 「植民地時代前半期のポトシ銀山をめぐる社会経済史研究:ポトシ市場経済圏の形成」
- 真鍋周三(兵庫県立大学名誉教授)
今回の特別講演では、前回お伝えできなかった「第2章」以下を中心にとりあげ、お話しさせていただいた。前回の報告内容を簡単におさらいした後、今回のメインテーマである「植民地政府によるポトシ銀山運営への関与」について、第5代ペルー副王フランシスコ・デ・トレド(在位1569-1581)の事績を中心に、「ポトシ市の都市基盤の構築・整備」、「精錬部門の改革」、「労働部門の改革」、「交通路の整備」の実態を明らかにした。結語では、ポトシ市場経済の特徴について簡潔にまとめた後、ポトシの銀鉱業が、私企業とスペイン王権による官民混合事業の典型であったことを指摘した。また原住民のあいだに貧富の差が著しく拡大していたことやポトシで産出された銀の流通についても考察した。[補遺]ではポトシに関わった人々として、フアン・オルティス・デ・サラテ(スペイン人)の軌跡、黒人ならびに原住民の足跡を追ってみた。
- 【特別講演】
- 「私のアンデス調査を振り返って」
- 藤井龍彦(国立民族学博物館名誉教授)
1961年本郷の文学部考古学科に進学したのが、私とアンデスとの関わりの始まりであった。現地調査に参加できたのは66年の第4次のアンデス調査で、コトシュ遺跡の3回目で最後の発掘調査であった。当時の海外調査は3年に1度であったので、次は69年に将来の調査計画立案のため、大貫さんとペルー北部高地の一般調査を行った。資料の送り出しを済ませた後、休学して70年10月までペルーに滞在してから帰国したが、その直後泉先生が脳出血のため急逝されてしまった。
1975年、寺田先生を団長として調査が再開された。前年の74年に創設された民博に助手として採用された私もその一員として、69年に大貫さんと小規模な発掘調査を行ったラ・パンパ調査に参加し、終了後民博の標本資料収集を行った。
古代文明の研究が主体であった日本のアンデス研究は、1978年客員教官であった増田先生を団長として、民博を中心とした民族学の調査が開始され、友枝さん、大貫さん、佐藤信行さん、山本紀夫さんなどとともに私も参加した。1982年からは友枝さんを団長として、ペルー南部高地、ボリビア北西部高地などで、環境利用を始めとしたさまざまなテーマで調査を継続することができた。
特筆すべきことは、1989年に民博の第1回特別展として「大アンデス文明展」を開催したこと、さらに、90年代以降、友枝さんの旧友であるサンマルコス大学のルイス・ミリョネスの協力のもと、スペイン語で多くの調査報告を刊行したことである。
- 【一般発表】
- 「手伝い関係からみるアンデス牧畜民の関係」
- 鳥塚あゆち(法政大学ほか非常勤講師)
アンデス地域における相互扶助的労働交換は、一般的に「アイニ(ayni)」や「ミンカ(mink’a)」の名で知られる。発表者の調査地でも、牧畜活動に関わる労働は「昔はアイニで行っていた」ということであったが、調査時には現金での支払いもみられた。発表ではペルー南部高地の牧民共同体を例に、牧畜活動のなかで特に放牧と家畜の毛刈りにおける労働交換について述べ、手伝い関係の変化および労働交換と支払いの変化について報告した。共同体では、他人の家畜を放牧する「パトロン―雇われ牧民」の関係が築かれており、放牧料は現金で支払われ、支払い額は共同体内でおおよそ共通している。牧民になる人は半固定的であり、現金で支払うとはいえ信頼関係から家畜を任せていた。毛刈りでは1日の労働に対して、現金支払いとアイニでの労働交換が並存していたが、高齢や人手不足という理由から同じ労働で返せないため、現金支払いで済ませるようになったという事実もみられた。労働の種類や人間関係にもよるが、アイニがまったくなくなったわけではなく、人びとが「今はなくなった」と語るのは、過去の「理想的アイニ」を「アイニ」と捉えるようになったからであり、実際には相互扶助と呼べるものは存在するのではないかと考えられる。
- 「スペイン、メキシコ、ペルーにおける『文化の三角測量』の可能性」
- 上原なつき(名桜大学)
川田順造の「文化の三角測量」から着想を得て、スペイン、メキシコ、ペルーの比較研究の可能性について発表した。ペルー国アプリマック県アンタバンバ村では、11月1日の諸聖人の日および11月2日の死者の日にアニメーロAnimeroと呼ばれる登場人物が、黒のチュニックや特徴的な三角帽を被り、墓地や路上で歌い踊る。現在、ペルー国内でアニメーロが観察されているのはアンタバンバ村および周辺の村に限られているが、文献調査の結果、スペインのムルシアでもアニメーロが行われていることがわかった。ムルシアのアニメーロは主にクリスマスに登場し、ジャケットやシャツなど一般的正装である。一方、アンタバンバ村のアニメーロの特徴的黒装束はむしろ、スペインおよびメキシコでみられる聖週間のナサレーノやペニテンテに酷似しており、発表者は何らかの影響や文化的習合があると予測した。そこで、スペインのアニメーロおよびナサレーノ、メキシコのペニテンテ、ペルーのアニメーロを比較することが、アンタバンバ村のアニメーロの特徴および役割を明らかにする可能性があることを論じた。しかし、特定の文化要素だけを取り出して比較することはそれぞれの地域のコンテキストを置き去りにする危険性があるため、今後は「死者に関する祭祀儀礼」という広い視野で検討する必要性がある。
- 「カハマルカ県ワンガヨック郡における調査速報:チーズ生産者の生存戦略について」
- 古川勇気(東京大学大学院)
南米ペルー北部山地のカハマルカ県は国内有数の酪農地域であり、小規模生産世帯が各自の生産・販売方法によって多様な経済戦略を行っている。そこで本発表では、カハマルカチーズの主要生産地であるワンガヨック郡において、酪農家とチーズ生産者との関係や、チーズ生産者と開発担当者との関係などの「商品」であるチーズとそれを取り巻く人々の関係を分析することで、「動態的な」カハマルカ県の酪農業が持つ不安定さの中で家計を維持するためにチーズ生産者が行う経済戦略を明らかにした。
- 「ワヌコおよびアプリマック地方におけるサトウキビ産業の現状とカニャッソの文化的利用に関する現地調査報告」
- 大貫良史(法政大学ほか非常勤講師)
カニャッソは、主にペルーのアンデスと呼ばれる山岳地域でよく飲まれてきた酒である。また、このことがアンデスにおけるサトウキビ産業の存続を可能にし、アンデス住人の伝統社会にも影響を及ぼしたものと考えられる。
ところが、近年、アンデスにおけるカニャッソ消費の減少と引き換えに、エタノールの直接飲用が進んでいるという。そこで、カニャッソの飲用とエタノールへの代替の実態を調査するため、2012年7月からおよそ二か月間、ペルー中部山岳地域のワヌコ県および南部のアプリマック県周辺の現地調査を実施した。また、本調査は、公益財団法人たばこ総合研究センターの助成のもと実施された。
調査手法は、主として現地の生産者や村人へのインタビューを中心とした。調査の結果、実際のエタノールの飲用は進みつつもその認識には差異があり、また地域によっても違いが大きいことや、カニャッソ回帰の動きがみられるなど、その実態は非常に多様なことが明らかになった。
- EL ESPAÑOL DE LOS ANDES: ¿VARIEDAD ESTABLE O “ESPAÑOL BILINGÜE”?
- García Tesoro(東京大学)
La comunicación propuesta tratará sobre el español hablado en gran parte de la Sierra Andina, también conocido como español andino o español de los Andes, el cual, según los estudios realizados en los últimos años desde diferentes enfoques teóricos, presenta una serie de características comunes que lo conforman como una variedad del español con carácter propio.
Dentro del marco de la lingüística del contacto plantearemos que se trata de una variedad surgida de una situación de contacto y bilingüismo histórico intensos, e intentaremos una explicación de algunos de sus rasgos gramaticales como cambios inducidos por contacto que surgen a partir de la explotación de los recursos lingüísticos de los que dispone el hablante bilingüe, especialmente en aquellas áreas en las que perciben similitudes en ambas lenguas, creando estrategias comunicativas innovadoras que les permiten una interacción más eficaz y que dan lugar al cambio lingüístico.
Ejemplificaremos nuestra hipótesis avanzando los resultados de un primer análisis de un corpus oral recogido en Chinchero (Cuzco, Perú), con especial atención a las construcciones causativas con hacer+infinitivo con sujetos causados inanimados que aparecen acompañados de verbos de causación interna así como de verbos que carecen de agente externo. El fin último será mostrar que lo que en principio se puede interpretar como una desviación de la norma estándar fruto de un aprendizaje deficiente, se trata de un cambio inducido por contacto que responde a estrategias comunicativas de los hablantes bilingües y en el que intervienen tanto factores internos en la lengua, que permiten los cambios en determinadas áreas de la gramática del español, como factores externos, el contacto con el quechua.
En definitiva, proponemos que la gramática de una variedad oral de contacto como el español andino tiene una lógica interna y se ha ido modelando para adaptarse y optimizar la comunicación creando nuevas reglas (Heine y Kuteva 2005, Jarvis y Pavlenko 2008, Palacios 2013, Thomason 2001).
- 「世界で初めてマチュピチュ遺跡に登った日本人達」
- 野内シーザー良郎(名古屋国際センター 交流課)
福島県安達郡大玉村出身の祖父 野内与吉は、大正6年にペルーへ渡り、1925年FCSA鉄道会社に勤務。会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わり、1929年クスコ~マチュピチュ区間の線路が完成。完成後マチュピチュ村に定住。与吉はスペイン語・ケチュア語・英語も喋れた為、世界遺産登録されてない頃マチュピチュ遺跡でガイドを務めた。1935年この村で初の本格的木造建築、3階建てで21部屋ある「ホテル・ノウチ」が建てられた。
与吉氏は創意工夫に富み労を厭わず、村のために尽くし村人に信頼されていたので1939年マチュピチュ村 初代村長として任命され3年間勤めました。1968年与吉は故郷 大玉村に帰郷し滞在中、ペルー紹介の講演会をして村人にペルーの魅力を伝え、クスコに戻ってわずか2ヶ月後の1969年8月29日息を引き取られました。日本から遠く離れたペルーでマチュピチュ村を有名にしたいと夢見た日本人 野内与吉は世界で初めてマチュピチュ遺跡に登った人物であるだろう。
- 「アンデスにおけるラクダ科動物の牧畜と『狩猟』:自然資源利用のダイナミズムの観点から」
- 稲村哲也(放送大学)
提出待ち
- 「クランデーロは何を治しているのか?:クランデーロのconsultorioでの活動から」
- 岡本年正(東京大学大学院)
クスコ都市部におけるクランデーロのconsultorio(診療所/仕事場)での活動について描写することで、クランデーロが実際には何を治療(curar)して、何に対応しているのかを分析した。その中で、クランデーロに対する人々の認識とクランデーロ自身の実際の活動との違いや、クランデーロ自身のクランデーロ像と他のクランデーロに対する批判、クランデーロが治療(儀礼)を行う際に発するケチュア語とスペイン語の語意の違いから治療するということそのものの違い、ここでは特に、curarとhanpiyに表れる治療や病気の概念に対する認識(病気の原因や治療するということのあり方)を鑑みることで、認識の多様性という並列するレベルではなく、病気の意味や治療の意味の違いについてそれぞれが見る世界が異なり、それら世界が複層的に存在することでクランデリスモが成立することを提示した。
- 「ペルー、クスコ県の2つの先住民共同体における居住形態と土地利用」
- 若林大我(法政大学、東京大学非常勤講師)
報告者はこれまで、ペルー、クスコ県内に位置する2つの先住民共同体、パンパリャクタ・アルタ(Comunidad Campesina de Pampallacta Alta)及びチリュカ(Comunidad Campesina de Chillca)にて、家畜飼育と利用の実態把握を目的とするフィールドワークを行なってきた。世帯ごとの牧草地利用の特徴として、前者では区画(sector)を越えた季節的な牧草地の使い分けが認められているのに対し、後者では同様の牧草地の使い分けが当該世帯が所属する区画内でのみ認められている、という違いが指摘できる。ただしそれぞれの世帯を取り巻く親族関係も分析に含めると、このような制度上の牧草地利用規則から逸脱する例も確認できる。どの牧草地を利用するかに関する各世帯の意思決定には、自然環境条件、親の代から継承される牧草地利用権などの他に、最適な牧草地へのアクセスを確保するための戦略的な婚姻や、既存の親族関係の解釈の余地も考慮する必要がある。
- 「Interculturalidad再考:カヤンベの農村に生きる一青年の生きざまを通して」
- 杉田優子(エクアドルの子どものための友人の会)
近年エクアドルでは、国家に対抗し自らの権利を取り戻す運動の旗印となってきたInterculturalidadという表現が憲法の中でも使われるようになった。特に2008年に制定した憲法の中では重要な意味を持つ思想として位置付けられている。先住民運動の掲げた理想を国や広く国民が共有しようとしているのだとすれば多民族国家としての大きな一歩といえる。しかし、その思想や国レベルの実践が地域に生きる人々にどのような影響を与えているのかは、視点を地域に落としてみないとわからない。本発表が焦点を当てたのは底辺にいる地域の人々、とりわけ個人の姿である。バストンデマンドの受け渡しの儀式をめぐって大統領の要請を断った先住民の青年リーダーの物語を通して、エクアドル、アンデス高地北部における国家と先住民組織のせめぎあいの中で、人々がどのように生きているのかを考察することによってエクアドルの間文化的様相を論じようとした。
- 「アルゲダスが愛した自殺譚」
- 加藤隆浩(南山大学)
ホセ・マリア・アルゲダスは1969年に自死した。58年の短い生涯だったが、彼が自殺を考えたのは、その時が最初ではない。1940年代にもその兆候は見られ、死の誘惑と戦ったことが知られており、彼の悲劇的な末路をめぐる論考は、その初期の心の動揺をも含め、もっぱら彼の書いた文学作品群とりわけ遺作『上の狐 下の狐』を基礎資料に分析されてきた。しかし、興味深いことに、1940年代に精神的危機を克服し、60年代末に再発するまでにも、このペルーの国民的作家は、別の形で自殺に特別な関心を寄せていたことが分かる。1950年代初め、彼は多くの説話を盛り込んだモノグラフ『マンタロ谷の民俗』(1953)のなかで、「愛ゆえの自殺」という話型をわざわざ設定し、それを「アンデス的」であると評して賛美している。そこで語られる自殺は、もちろん、説話の中での出来事であり、アルゲダスの実生活とは異なるが、その資料は、自死について、彼が当時どのように考えたのかを知るうえで貴重である。この発表は、これまで等閑視されてきた「愛ゆえの自殺」譚という分類の創出のからくりを明らかにし、その新しい分類が持つ意味を検討し、その話型にどのような特徴があるか、また、それを今後どのように分析するべきであるか、その方向を探った。
- Las haciendas y las comunidades campesinas frente a la Reforma Agraria: acontecimientos políticos-sociales en la sierra sur peruano
- 木村秀雄(東京大学)
要旨提出待ち
