第9回研究大会(2020)発表要旨
- 存在論的転回から再考する「マチュ」の概念
- 上原なつき(名桜大学)
本発表では、調査者の認識と、現地の人々の認識の不一致について、存在論的転回をてがかりに考察した。
ケチュア語で「マチュ(machu)」は、老人、死者、山、遺跡などを指す。また、類似するタームとして「アウキ(awki)」は身分の高い人、老人、死者、山などを指す。発表者は2010年にクスコ県カンチス郡ピトゥマルカで、スペイン語とケチュア語のバイリンガルである30代男性に通訳を依頼し、ケチュア語モノリンガルの高齢女性に対して、ミイラについてのインタビューを試みた。
事前に、通訳には発表者がミイラ(momia)について調査していることを、スペイン語を用いて十分に説明していた。インタビューにおいてケチュア語に訳す際、通訳男性はミイラをマチュおよびアウキと訳した。すると、インフォーマントの高齢女性は山についての神話を語り始めた。発表者は困惑したが、通訳男性は驚く様子も訂正することもなく、通訳を続けた。
その時、発表者はインフォーマントの「取り違え(equivocación)」だと理解し、気にも留めていなかった。しかし、通訳とインフォーマントの間では「マチュ」、「アウキ」について話していることに何の齟齬もなかったのである。研究者にとってこれらのタームは「多義的」であったが、彼らにとってはひとつの概念として、互いに理解されていたのである。
老人、死者、山、遺跡をマチュ、アウキというひとつの概念とするアンデスの人々の存在論を研究者は「真剣に受け取り」、ストラザーンのいう「一でも多でもない」「部分的つながり」をヒントに、研究者がこれまで「多義的」としてきたタームや概念を再考する必要があるのではないだろうか。
- アンデス先住民社会における最初期のキリスト教化:ロアイサの「訓令」(1545)をめぐって
- 大平秀一(東海大学)
スペイン人による「征服」直後、アンデスの先住民の村々では、何が生じていったのであろうか。遺跡から、インカの土器とヨーロッパからもたらされたトンボ玉が同時に出土する事例こそあれ、その状況を知り得る資料はほとんどない。本報告では、1545年にジェロニモ・デ・ロアイサ(リマ初代司教[1541-1546]、大司教[1546-1575])が、各地の司祭、修道士、キリスト教徒(エンコメンデーロ等)に向けて発行した「先住民の改宗区において取られるべき秩序に関する訓令」(以下、「訓令」と略記)を通して、征服後12年の段階における村々の状況を考察した。
この「訓令」では、まず「発見」・「征服」の目的がキリスト教の布教と先住民の回心であったことが確認された後、「(本当の教会ではない)教会様式」の建造物の建設、「何らかの聖像」・祭壇の設置が指示され、荘厳さを醸し出して秘蹟を執行し、教化することが求められている。キリスト教の信仰以外の目的でその「教会」に集まることは禁じられ、「ワカ」の破壊と十字架の設置も指示されている。さらには、洗礼・結婚・告解・祝祭・ミサ・埋葬・食事規制に関して、こと細やかな指示がなされているほか、農作物に対する十分の一税の徴収も求めている。
宗教改革、それに対するカトリックの対抗宗教改革・トリエント公会議の開始(1545年3月15日~)という、当時のヨーロッパ社会の影響を受け、アンデスの先住民は、「征服」直後から、引き締められていったカトリックの雁字搦めの論理・理念・慣習の中に嵌め込まれていった状況がみてとれよう。
- 祭礼ティンクの文化運動と社会主義運動党(MAS)の呼応:ボリビア2019年選挙を軸に
- 山本尋(東京大学大学院)
本発表ではボリビア・ポトシ県マチャ村における「ティンクの中心地(Capital del Tinku)」運動を追いかけた。ティンクとは、先住民による拳闘などをその内容とする祭礼であり、上の運動を通じて、マチャ村のティンクが国の無形文化遺産に登録された(2012年)。本発表の目的は、この後もなお担い手の政治的思惑の中で展開する「ティンクの中心地」運動の現状を整理し、評価する事である。
ボリビアでは2006年から3期14年間、エボ・モラレス率いる社会主義運動党(MAS)が政権を担ってきたが、モラレス政権と「ティンクの中心地」運動には、利害関係の繋がりがある。マチャ村住民は、村の行政自治権を国に訴える中で「ティンクの中心地」宣言を活用し、MASは70年以上に渡って国に保留されてきた「マチャ自治体」創立を、2019年6月に認可した。モラレス4選の可否を決する総選挙を4か月前に控えての出来事である。「われわれにはティンクがある。ただし相手は右派だ」と支援者に発破をかけ再選したモラレスであるが、米州機構から得票操作を指摘され、11月には失脚する。
2017年よりフィールドワークを行う発表者は、当初「ティンクの中心地」運動についてローカルな土着文化の復権を促す先住民運動と評価していた。しかし上述の出来事を通じて、MAS長期政権の政治権力とその延命との関わりから同運動を捉えなおす必要に迫られている。
- リベラルタに住んだ日本人:1910~20年代ボリビア・アマゾン地域の日本人関係史料から見える諸相
- 大島正裕(明治大学島嶼文化研究所)
本発表は、1910~20年代、ゴム産業の興隆により発展したボリビアのアマゾン北部の町リベラルタに居住した日本人移住者に関する研究報告である。19世紀末からアマゾン地域原産の天然ゴムは、タイヤゴムの世界的な需要で注目され、奥アマゾンは突如栄華を迎え、複雑な河川網が入り乱れ、交通の要所としてゴムの集積所として発展しつつあったリベラルタは大いに賑わった。そして、近隣国の日本人移民もその噂を聞きつつ、リベラルタに流入しはじめた。1911年の記録によると、日本人は居住する外国人の中でマジョリティを占めており、1917~18年頃には500~700人の日本人が居住していたとも伝えられている。
人口増加に伴い、日本人は、小売業、食堂、農業にも職業の幅を広げていき、リベラルタ社会の中で確固とした地位を築いていく。しかし、そのことはボリビア社会との軋轢が生まれることも意味した。日本人社会の結束を守り、ボリビア社会との融和を図る目的で1915年にはボリビア最初の日本人会「リベラルタ日本人会」が結成された。その後、ゴム・ブームの急落と共にリベラルタの日本人人口は減少を辿るが、第二次世界大戦前までは、リベラルタの日本人社会は同国の日本人社会の中で特別な地域を占めた。
1970~90年代には、フィールドワークや初期移住者へのインタビューをまとめたオーラルヒストリーや見聞記、移住者の残した記録や資料を分析したリベラルタ研究が幾つかうまれたが、ボリビアの社会的歴史的状況、リベラルタでの日本人と地元との関係性については、更なる深堀の余地があり、現地研究者との連携、日本人に関して残された資料の総合的な文書書類の調査や研究はまだまだ必要であると考える。本発表は、そのような観点から、今後のリベラルタ研究の進捗を目指すための中間報告である。
